コミュニケーションの難しさ
はじめに
「この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2021の3日目の記事です。」
〜「コミュニケーション」〜
難しい話題である。京大入試より難しい気がする。
近頃寮内にて、「コミュニケーションは暴力である」という文言が散見される。ここにおける「暴力」とは、学生運動が活発であった頃の用語である「ゲバルト」の意味を含んでおり、violenceではなく実力行使の意味全般を含んだもの、として使っているのだろう。彼らの主張を自分なりに解釈すると、
「コミュニケーションは、相手に自分の意志を伝え、相手からも伝えられるものである。意志を伝えられると、人は変わる。良くも悪くも。そうしてお互いにどんどん変わって行くことによって、折り合い、あるいは相互理解を深めていく。相手と完全に分かり合うことなどできないが、納得が行くまで議論すればそこに向かって近づけることはできるのでは?」
ということだろうか。「ハラスメント」や「コンプライアンス」といった、定義の曖昧な人権意識だけは高そうな言葉が濫用されている現代において、積極的なコミュニケーションはそのメリットよりもデメリットの方が強調され、人間関係がどんどん薄くなっていっているのが現代である。それは、SNSを含むインターネットの普及、あるいは技術の進歩などにより、昔のように「お隣さん」と助け合わずとも一人で生きていけることによって、「面と向かって」でのコミュニケーションをする必要性がなくなってきていることにも起因するだろう。
寮においても例外ではない。集団生活とはいえ面倒ごとは覚悟していたほど多くない。同部屋の人間とさえうまくやっていれば人間関係の面倒ごとは少ないだろう。 言わば、「仲良くする必要がない」のだ。にもかかわらず寮内コミュニケーションを促進するような文言が存在するのは、大学の方針変化に伴う福利厚生サービスの縮小、ないし廃寮、へと追い込まれないように自治寮を維持する必要がある、という寮の特別な事情が背景にあるのだろう。その事情の詳しい内容については割愛するが、ここではコミュニケーションの難しさについてのみ言及しようと思う。
なぜコミュニケーションが難しいのか
なぜコミュニケーションが難しいのか。答えは単純。
「相手がどんな反応をするのかわからないから。」
結局最初から最後まで、これに尽きると思う。
熊野寮には「ハラスメント規則」というものが存在する。規則を制定することは、寮内での人間関係での揉め事に対処するための有効な手段である。これに加え、熊野寮ではこういったものを専門に扱う部署も置かれており、ハラスメントが発生しないように様々な工夫が施されている。他の共同体にはない、この寮ならではの優れた点であると言えるだろう。
だが、このハラスメントという言葉、あまりにも定義が曖昧すぎやしないだろうか。
「ハラスメントって何ですか」
という問いに対して胸を張って答えられる人は、京大にもほとんどいないのではないだろうか。「相手が嫌だと言ったらハラスメント」などという半ば強引な論調まで見受けられる。被害者を尊重する姿勢は素晴らしいが、被害者の側に立ち過ぎていて公平な第三者としての役割を失っている。こればかり言っていては活発なコミュニケーションなどあり得ない。それどころか、冤罪が発生するリスクまでつきまとう。
この言葉のもう一つの特徴として、
「定義が曖昧なのに、罪が重い」
というものがある。
一度ハラスメント加害者の烙印を押されてしまうと、その人はその集団内における社会的地位を失う。”ハラスメント”という言葉、本文ではたくさん登場しているが、本当は濫用してはいけない、非常に危険で拘束力の高い言葉であるのだ。
そしてこの言葉の厄介なところは、この”社会的信用”というのみには留まらない。
② 物的証拠
第二の問題、それは、物的証拠が乏しい、ということにある。
社会人としての地位が崩壊する危険性があるほど”加害者の称号”は重いのに、物的証拠が存在するケースが少ないのだ。結果丁寧な議論が出来ぬまま、加害を立証できず、被害者が泣き寝入りする事例が相次いだ。大きな問題点であると言えるだろう。
だが、物的証拠の少なさは、何も被害者だけに限った話ではない。
③ 冤罪
物的証拠が少ないから、たとえ冤罪だとしても、潔白を証明することが非常に困難である。
もし目の前で泣いてる被害者がいたら、たとえ「私はやっていない」と加害者が主張していたとしても、聞き入れられることはないだろう。たとえ嘘泣きをしていたとしても、被害者と名乗る人にも非があったとしても、公平な裁量がなされることは少ない。泣き寝入りするのは、被害者だけだとは限らないということだ。
あんまりピンと来なかった人は、「痴漢」を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。痴漢を行う許せない悪党の対策はもちろん必須であるが、これと並行して痴漢冤罪を吹っ掛ける悪者の存在を考慮する必要がある。
痴漢によって異性に対し過度な恐怖心を植えつけられた人、トラウマとなった人は多い。だがその対策をする際には、それよりはるかに数が少ないかもしれないが、痴漢冤罪によって地位を失った人の存在も忘れてはならない。
痴漢が社会問題として表面化してきて以来、満員電車に乗るサラリーマンの多くは痴漢冤罪を恐れ、常に両手を塞がる形にして乗車しているという。被害者の気持ちを考えれば、「別にええやん」と思うかもしれないが、これをコミュニケーションの話に置き換えてしまうと、
「人々の多くはハラスメント冤罪を恐れ、ハラスメントの発生し得ない、必要最低限のコミュニケーションのみに留めている」
という状態になってしまう。寒い時代だとは、思いませんか。
じゃあどうすればいいのか
絶対にハラスメント加害者にはなり得ない、そんな人なんてこの世には存在しない。
なぜならば、相手の受け取り方、感情を100%予測できる人など存在しないから。
「何言ってもハラスメントになりうるならば、何言ってもいいんじゃないか」
答えは否。なぜならば、相手の事情を全く考慮しない発言ばかりでは、集団内における円滑なコミュニケーションなど成立し得ないから。
じゃあどこまでがセーフで、どこまでがアウトなんだ、となるかもしれないが、その線引きの基準は、受け手の許容量に依存している。つまり、相手の気分次第なのだ。
たとえ「最大限配慮する」としても、それは主観的判断に過ぎない。「それってあなたの感想ですよね。私は傷ついたんですけど。」と言われてしまったその瞬間から、その人は加害者になってしまうのである。
逆に、日頃から暴行を受けている人がいたとして、「殴られるの、うれしい。」と言っている間は被害者とはならない。”うれしい”から”つらい”へと移行してはじめて、その人は被害者となるのだ。
このように、論理的にコミュニケーションについて考えてみようとしても、どうしてもどこかしらで感情的な判断が挟まってしまう。自分の論理が不十分であることに起因するなら謝罪する。ピンク色の生物を携帯して徘徊しているので、指摘してほしい。以降自分は感情的判断の介入を前提とした上で話をしようと思う。
コミュニケーションとは
コミュニケーションを100%論理的に考えることができないならば、そこに介在する感情という要素について考える必要がある。
コミュニケーションに介在している感情ってなんだろう?と考えたとき、自分は代表的なものとして、「円滑に自分のやりたいことをしたい」と、「なかよくなりたい」の二つが想定されるのではないか、と思う。
やりたいことをしたい
これは主に、仕事や部、サークル活動、運営において見られる感情であるだろう。
やりたいことを相手に伝わるように的確に表現するためには、内容に対する理解に加えて、「聞き手がわかるようにするためには、どう工夫したらいいのだろう?」という工夫が必要になる。
先も述べたように、コミュニケーションとは受け手の許容量に依存する行為であるから、どんなに頭の切れる人でも、後者を怠れば共同作業を行うことができなくなる。
一人の人間がこなせる仕事量は有限であるから、時には、小さな子どもと話すときに身体を屈めて相手と目線を合わせるように、相手の視点に立って物事を考えるという作業、ないしその上でのコミュニケーションが必要であるだろう。
そしてこの「相手の視点に立つ」という心構えこそが、コミュニケーションにおける大事な要素ではないだろうか。
この心構えには、「分かった気になっているだけ」「独り善がり」という批判を浴びる可能性が常に付きまとっているが、何も考えないよりはマシであろう。
基本は相手の立場に立ちながら、たまにそう言われたらその都度ヘコみながらもそれを教訓として次に生かしていく、これがコミュニケーションに対する基本的な姿勢であるのではないだろうか。
だが、「いちいち相手の気持ちなんて考えていると疲れる。」と思う。かく言う自分もそうだ。そこで大事になってくるのが、「なかよくなりたい」という意志の存在である。
なかよくなりたい
基本的に、好きでもない、興味ない人とコミュニケーションをとるのはいやだ。このことは、人と話しているときの体感時間を思い浮かべてみるとわかりやすいだろう。嫌いな人、興味ない人と話していると、それがたとえ10分に満たない時間だとしても、それがとてつもなく長く感じられ、苦痛になるだろう。逆に、特定の人と話していると気づいたら何時間も経っていた、という経験をした人は多いと思う。
コミュニケーションにおいて一番大事なことは、相手と「なかよくなりたい」という意志、あるいは相手に対する興味である。
相手の気持ちを考えるという労力のかかる面倒な課題も、その労力を上回るほどの意志と興味があれば自然と行うことができ、上手くやれば「相手を傷つけるかもしれない」という恐怖にすら打ち克つことができる可能性をも秘めている。
もちろん、相手を傷つけてしまう可能性は存在する。だがいつまでもその可能性を恐れていると、コミュニケーションが始まることはないだろう。コミュニケーションをする際には、失敗経験を理解し、相手を傷つけたという事実を受け入れ、裁きを受け入れる覚悟もまた必要である。私もまた過去に人を傷つけ、揉め事に発展した経験がある。そのときに受けた中傷によって私はPTSDの診断を受け、今でもその症状に苦しめられているが、相手を傷つけたという事実が真であるならば相応の報いであるだろう。
私自身の例は極端であり、そこまでの覚悟は必要ではないと思うが、相手の気持ちを完全に理解することなどできない以上、ある程度のリスクを乗り越えなければ、いつまでも他人行儀のよそよそしい「コミュニケーションもどき」しかできないだろう。
けつろん
コミュニケーションとは結局のところ、「思いやりのキャッチボール」である。
お互いに相手を思いやることで、「真のコミュニケーション」が生まれる。ただこれを関わった全ての人とやっていると疲れるので、ときには「表面上のコミュニケーション」を使い分ける。両者における決定的な違いは、その動機にある。前者は、相手のことを想ってするものである。だから、話すときには相手の気持ちを考えるし、相手に対する興味は尽きず、相手がよければそれでいいので、見返りは求めない。だが後者は、自分が社会、共同体内で不利益を被らないためにするものなので、自分のことしか考えていない。気を遣いはするが、あくまでもそれは自衛のためであり、そこに思いやりは存在しない。「コミュニケーションもどき」である。
文章長いし、全てを理解してもらう必要はない。ただこれを読んだ人は、(難しいと思うし、書いてる自分でさえ下手くそでミスばかりだけど、)普段は「コミュニケーションもどき」を使いつつ、なかよくなりたいな、って思った人に対しては、ちゃんと「コミュニケーション」をできる人になってほしいな、と思っています。その参考になればうれしいな。